ダイエットを決意してヘルスケアアプリを使い始めたものの、数日で挫折してしまった。そんな経験はありませんか?
スマートフォンを開けば、健康をサポートするアプリが簡単に見つかる時代です。しかし、どんなにやる気があっても、それを続けることの難しさを感じている方は多いのではないでしょうか。なぜなら、新しい習慣を身につけるには、個人の意志の力だけでなく、私たちを取り巻く環境も大きく影響するからです。
そこで今、医療・健康分野で「行動科学」という学問が注目されています。禁煙支援や糖尿病の自己管理など、公衆衛生の現場では行動科学の知見が長年活用されてきました。人が「なぜそのように行動するのか/しないのか」を理解することで、より効果的なアプローチが可能になるのです。では、この考え方をデジタルヘルスケアに応用できないでしょうか。 もしかすると、多くのヘルスケアアプリに足りなかったのは、まさにこの「行動科学」の視点なのかもしれません。
ヘルスケアアプリのUXに「行動」の視点が欠かせない理由
健康的な生活を送ることの難しさは、頭では理解していても、実行に移すのが難しい点にあります。
運動をした方が良い
野菜を多く摂るべきだ
十分な睡眠時間を確保しなければ
これらは、多くの人が健康のために重要だと理解していることです。しかし、実際の生活では様々な誘惑が要因となり、良い習慣を定着させるのは容易ではありません。さらに、新しい習慣を始めるには、これまでの古い習慣を断ち切る必要があり、気合いだけで乗り越えるのが難しいのも課題です。
例えば、運動を促すリマインダー機能を考えてみましょう。「毎日夜9時にお知らせする」という設定は、一見便利に思えるかもしれません。しかし、ユーザーの実際の生活に目を向けるとどうでしょうか。その時間に、子どもの寝かしつけで忙しい方もいれば、まだ残業している方もいるはずです。タイミングの悪い通知は、かえってストレスの原因になりかねません。むしろ、ユーザーの生活パターンをアプリが学習し、最適なタイミングを提案する方が、はるかに実用的と言えるでしょう。

この例が示しているのは、単に便利な機能を作るのではなく、その前にユーザーの日常生活、モチベーション、そして行動を妨げる制約を深く理解することの重要性です。また、年齢や性別といった属性だけでユーザーをひとくくりにするのではなく、それぞれの生活背景に合わせたアプローチを考えることも大切です。
このように、ユーザー一人ひとりの状況に目を向けることで、より柔軟で現実的なアプローチが実現できるのです。行動科学は、人の行動の背景にある根本的な障壁を明らかにし、こうした複雑な課題を解決へと導くための強力なツールとなります。
ケーススタディ:禁煙支援アプリ
具体的な例として、社員向けの禁煙支援アプリを開発するケースを考えてみましょう。このとき、すぐに機能開発に着手するのではなく、まずは以下のような行動分析からアプローチします。
- なぜ、禁煙は難しいのか?
- すでにどのようなサポートを受けているか?
- どのような時にタバコが吸いたくなるのか?
- その引き金となる感情や状況は何か?
この分析を通じて、禁煙を妨げる要因と後押しする要因を洗い出します。
【禁煙を妨げる要因の例】
- 習慣の連鎖: コーヒーを飲んだ後の一服など、特定の行動と結びついている
- 周囲の影響: 喫煙する同僚とのコミュニケーション
- 感情的なきっかけ: ストレスを感じた時や、手持ち無沙汰な時
- 自己認識: 「自分は喫煙者である」というアイデンティティ
【禁煙を後押しする要因の例】
- 健康への意識の高まり
- 家族や友人からのサポート
- 過去に禁煙や節煙に成功した経験
- 職場の禁煙ルールや制度
分析を進めると、例えば「ストレス対処」のような場面で、デジタルツールの有効性が見えてきます。気持ちを記録する機能、タイムリーな励ましのメッセージ、喫煙を我慢できた時に報酬を得られる仕組みは、ユーザーの気持ちを切り替え、モチベーションを維持する上で非常に効果的です。喫煙したくなるまさにその瞬間に、踏みとどまるための後押しとなるのです。

しかし、ここで重要なのは、最も効果的な対策が必ずしもアプリ内に存在するとは限らないという点です。例えば、喫煙が「同僚との喫煙所での雑談」といった職場の人間関係と深く結びついている場合、アプリの機能改善よりも、喫煙所の撤去や職場全体の禁煙化といった「環境」へのアプローチの方が、はるかに大きな影響を与える可能性があります。こうした物理的・制度的な対策は、個人の努力だけでは抗いがたい環境要因に直接働きかけることができるからです。

このケースから言えるのは、アプリは万能な解決策ではなく、あくまで行動変容を促すアプローチ全体の一部として捉えるべきだということです。デジタルツールは強力なサポーターですが、その真価が発揮されるのは、ユーザーを取り巻く物理的・社会的な環境までを深く理解し、その上で設計された場合に限られるのです。
長く使い続けてもらうためのデザインとは
ヘルスケアアプリは、一時的な問題解決ツールではありません。ユーザーの健康づくりに長期的に寄り添うパートナーであるべきです。それは、日々のサプリメントやスキンケアのように、継続して初めて効果を実感できるもの。アプリも同様で、一度使ってもらうことがゴールではなく、ユーザーの行動が長期的に良い方向へ変わっていくことこそが本来の目標です。
だからこそ、私たちは従来のユーザビリティテストだけでは不十分だと考えています。「この機能は使いやすいか」という問いだけでなく、「この設計は習慣化を促すか」「ユーザーが長く使い続けたいと感じる工夫は何か」といった、より深い視点での評価が不可欠です。
長期的な利用と行動変容をサポートするために、私たちは以下のようなリサーチ手法を組み合わせて活用しています。
- コンテクスチュアルインクアイアリ(Contextual Inquiry): ユーザーの日常生活の中で観察を行い、健康行動に影響を与えているリアルな文脈や要因を把握します。
- カスタマージャーニーマップ: ユーザーが経験する一連のプロセス、その時々の感情や課題を時系列で可視化し、どのタイミングでどのようなサポートが必要かを特定します。
- 日記調査: 日々の気持ちや行動、アプリの利用状況などをユーザー自身に記録してもらうことで、長期的な利用を妨げる要因や隠れたニーズを発見します。
- ユーザビリティテスト: 単なる操作テストに留まらず、事前課題や持ち帰り課題を組み合わせることで、実生活における使用感や継続利用の可能性を評価します。
まとめ
行動科学は、効果的な健康施策を立案する上で、これまでも重要な役割を担ってきました。そしてデジタルヘルスケアが進化する今、成功するヘルスケアアプリには、単なる使いやすさ以上の価値が求められています。その成功は、ダウンロード数やアクセス数といった指標ではなく、ユーザーの行動が実際に変わり、健康状態が改善されたかによって測られるべきだと考えます。
また、こうした行動科学的アプローチは、一般的なヘルスケアアプリだけでなく、治療用アプリ(SaMD)や医療機器のユーザビリティ評価(HFE)においても、規制当局が求める「使用エラーのリスク低減」の根拠として重要視され始めています。
UXリサーチには、その変化を実現する力があります。人が健康に関する選択を行う際の、複雑な背景や心理を深く理解することで、人々が自然と、そして前向きに使い続けたくなるサービスを創造できるのです。
私たちUismは、こうした「行動変容のデザイン」や「利用文脈の深い理解」を支援するパートナーとして、ヘルスケアをはじめとする専門分野に特化した、バイリンガル対応のUXリサーチを提供しています。
豊富な参加者ネットワークを活かし、希少疾患の患者様など、リクルートが困難なユーザー層へのアプローチも可能です。
また、医療機器開発におけるヒューマンファクターエンジニアリング(HFE)調査も手がけており、規制要件に対応した計画立案から最終報告書の作成まで、一貫してサポートいたします。日本国内のユーザーによるユーザビリティ検証(形成的/総括的評価)、グローバルHFE/UE文書の補完、日本市場における製品利用実態の把握など、お客様の多様なニーズにお応えします。ぜひお気軽にご相談ください。
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参考文献
Does Nudge Theory Still Work? – Insights from BBC Future
Morrison, Leanne. (2015). Theory-based strategies for enhancing the impact and usage of digital health behaviour change interventions: A review. Digital Health. 1. 10.1177/2055207615595335.
Nahum-Shani I, Smith SN, Spring BJ, Collins LM, Witkiewitz K, Tewari A, Murphy SA. Just-in-Time Adaptive Interventions (JITAIs) in Mobile Health: Key Components and Design Principles for Ongoing Health Behavior Support. Ann Behav Med. 2018 May 18;52(6):446-462. doi: 10.1007/s12160-016-9830-8. PMID: 27663578; PMCID: PMC5364076.


