なぜあの旅館での体験を忘れられないのか:九州の温泉宿で学んだ「最高のUX」の本質 

夕食で使われた囲炉裏。燃え盛る炎の上に黒い鉄鍋が吊るされており、食事への期待感が高まる様子。

今日は、ある問いかけからブログを始めたいと思います。 
あなたにとって「最高のユーザー体験」とは、どんなものでしょうか。 

すぐに思い浮かんだとしたら、それはきっと、あなたの記憶に深く刻まれるほど心を動かされた体験だったことでしょう。ただ、そうした感動的な体験ほど、なぜ良かったのかを的確に言葉で説明するのは難しいものです。 

先日、私はその答えのヒントを、思いがけず九州のとある温泉旅館で見つけました。 
それは、心を鷲掴みにされ、人生の記憶に深く刻まれるような体験。なぜ、あの旅館はこれほどまでに特別だったのか?今日は、その感動を振り返り、私たちの仕事に活かせるヒントを探ってみたいと思います。 

始まりはちょっとしたサプライズから 

山の中にひっそりと建つその旅館に車で到着すると、すぐに館主の方が出迎えてくれました。チェックインを済ませた後に言われた一言。 

「本日キャンセルが出ましたので、お部屋の露天風呂をアップグレードさせていただきました。館内は貸し切りでございます。」 

予想外の幸運に心躍らせながら案内された部屋は、大きなファミリーサイズの露天風呂付き。部屋の中は、どこか懐かしさを感じさせる空間で、中央には冬に嬉しいこたつ、その上にはみかんと和菓子が置かれていました。奥の棚には可愛らしいお茶のセットが並び、隣の和室には、ふかふかな布団が用意されていました。また、自分で豆を挽くコーヒーミルや、色とりどりで選ぶのが楽しくなるほどの浴衣も。 

細部にこだわった部屋のデザインとその細工。 ひとつひとつは小さな要素ですが、それらが重なり合うことで、心地よい調和が生まれています。館主の方の部屋の説明も、ただの設備紹介ではなく、ここでどう過ごしてほしいかが伝わってくる話し方で印象的でした。 

古民家風の趣がある温泉旅館の客室。木の温もりがある空間に、布団が敷かれた寝室と切り株のテーブルが見える。
今回泊まったお部屋

UXデザインでは、ユーザーの最初の体験が、その後の全体の印象を決定づけると言われます。この部屋に入った瞬間、これからの滞在が良いものになるだろうという予感が確信に変わりました。まだ何も始まっていないのに、すでに満たされた気持ちになっていたのです。  

全ての時間に物語という繋がりを 

夕食は、囲炉裏のある個室で。 
目の前で焼かれる地元で採れたばかりの野菜や赤牛の料理。感動したのは、その味だけではありませんでした。 

一品運ばれてくるたびに、スタッフの方がその背景にある物語を丁寧に語ってくれます。 

「この赤牛は、○○を食べて育つんです」

 「この串焼きは、この地域で昔から親しまれている食べ方で… 」 

食事とともに、その土地の文化や歴史、人々の営みといった背景も味わっているような、深い奥行きを感じました。 

さらに、私たちが「明日の予定はまだ決まってないんです」とぽろっとこぼすと、スタッフの方はすぐに地図を広げ、地形の話を交えながら、私たちのフライト時間に合わせた無理のない旅程を一緒に考えてくれました。 

完璧なタイミング・距離感 

「後ほどデザートをお運びします」と言われ部屋に戻り一息ついた、まさにその時。控えめなノックが響き、ドアを開けると、ロウソクが灯されたデザートプレートを持ったスタッフの方が。友人の誕生日を祝うために、こっそりお願いしていたサプライズです。 

何より感動したのは、そのタイミングと距離感の絶妙さでした。 

てっきり食事の個室でそのまま出てくるのかと思っていたら、そうではありません。私たち二人が完全にプライベートな空間でリラックスした瞬間を見計らって来てくれたのです。 
そして、プレートを渡すと「おめでとうございます」の一言とともに、「記念写真をお撮りしますので、準備ができましたらお呼びください」と言い残し、すっと部屋の外へ。二人の時間を邪魔しないという配慮が伝わってきます。私たちが喜びを分かち合った後、記念写真を撮ってくれました。これは、深いホスピタリティがなければ決してできない神業だと感じました。 

感動は、旅の終わりまで途切れない 

夜、スタッフの方に「明かりを消しますので、外で星を見ると綺麗ですよ」と教えられ、宿の外へ。空を見上げると、二人で思わず息をのみます。そこには、手が届きそうなくらい近くに、無数の星がまたたいていました。都会では決して出会えない、降ってくるような星空。言葉を失い、ただ静かにその光景を眺める時間は、何よりの贅沢でした。 

山のシルエットの上に広がる、無数の星が輝く満点の夜空。都会では見られない美しい光景。
旅館の外の夜空 

部屋に戻れば、プライベートな露天風呂が待っています。ひんやりとした夜風の中、体を温かい湯に沈める。聞こえるのは、湯の流れる音と、遠くで鳴く虫の声だけ。 

翌朝は、友人の誕生日当日。私たちは少し早起きをして、部屋のコーヒーミルで豆を挽くことから一日を始め、展望台へ。冷たく澄んだ空気の中、迎えた日の出は、まるで新しい一年の始まりを祝福しているかのようでした。 

山のシルエットの上に広がる、無数の星が輝く満点の夜空。都会では見られない美しい光景。
展望台からの日の出 

旅館に戻り朝風呂に入ってから向かった朝食にも、最後の感動が待っていました。テーブルには見たこともないほどの数の小鉢が並び、スタッフの方が、また一つ一つに込められた物語を語ってくれるのです。最後の最後まで続いたこのおもてなしは、旅が終わった後も記憶の中で輝き続ける、完璧な締めくくりでした。 

最高のUXは記憶に刻まれる 

この旅館での体験を振り返り、私はあることに気づきました。あれほど感動したにもかかわらず、スマホの画像フォルダに、旅館で撮った写真がほとんどないのです。 

写真を撮ることを忘れるほど、私は体験に没頭していたのでしょう。それは、すべての時間が繋がり五感のすべてが満たされていた証拠なのだと、今なら分かります。 

優れたユーザー体験は、単に便利で分かりやすいだけでは生まれません。今回の旅館での体験が、まさにそれを教えてくれます。それは、 

予想を少しだけ超える出来事があり、 

利用する人の状況や気持ちに深く目が向けられ、 

一つ一つの時間が丁寧につながっていること。 

そうした積み重ねが、ふとした瞬間に思い出す忘れられない体験になっていくのだと思います。 

プロダクトやサービスを作る際、この旅館の体験をそのまま再現することはできません。しかし、その根底にある相手を深く思いやり、最高の体験を届けようとする思想は、私たちが向き合う日々の仕事にも応用できます。 

ユーザーの一日の流れや、その時々の気持ちにどこまで想像力を働かせられるか。 

その視点を持ち続けることこそが、私たちの仕事の原点なのだと、この旅は改めて教えてくれました。